「生と死を考える」 保健指導実践者に向けてデーケン先生からのメッセージ
No.1 「ユーモアとは、にもかかわらず笑うこと」
上智大学名誉教授
アルフォンス ・デーケン
死生学とはなんでしょう
まず、死に関して学問は英語で「サナトロジー(thanatology)」、ドイツ語で「タナトロギー」と言います。これは、ギリシア語の死を意味する「タナトス」と、学問・研究を意味する「ロゴス」を合わせた造語です。タナトロジーを日本語に直訳すると、死学となりますが、「死」について考えれば考える程、同時に「生きる」ことを深く考えさせられるので、死学ではなく「死生学」と翻訳し使っています。
死生学とは学際的に生と死を研究する学問のことです。学際的というと、医学・看護学・福祉学・教育・哲学・心理学・宗教学・文学・法学・歴史学などの、あらゆる分野の立場から、人間の生と死を探求・研究することです。
人間の死亡率は、100%で、人間は必ず愛する人と自分自身の死を体験することになります。特に、愛する人を失ってからどう生きるかは、大切なテーマです。死別体験のあとの悲嘆は、単に受動的に悲しみ、苦しむではなく、積極的な悲嘆の仕事として捉えていかなければならないことを学ぶ必要があります。
これはフロイトがつくった新しい概念で、ドイツ語では「トラウワーアルバイト(Trauerarbeit)」と言います。トラウワーは悲嘆、アルバイトは仕事を意味し、英語で「グリーフワーク(grief work)」と言います。日本語で、「悲嘆の仕事・喪の作業」とも言われています。大勢の人が愛する人の死について考えたくないと思うことから、死をタブー化します。相手を失う前に悲嘆教育を受ければ、上手に立ち直る道を歩むことができると考えています。多くの女性は夫との死別を経験します。ですから、配偶者の死に備える教育が必要だと考えます。
また、がんの告知を受け、治らないとわかった時から「予期される悲嘆(anticipatory grief)」がはじまります。私は、医師と看護師のためにしばしば講義をしていますが、病院の中に悲嘆の担当者を設け、患者さんの家族のために悲嘆教育を提供してほしいと提案しています。
最近では、日本人の平均寿命は世界一で長いとされていますが、誰でも遅かれ早かれ自分の死に直面しなければなりません。ドイツでは、動物の死と人間の死を異なる言葉(動詞)で使い分けます。動物の死は「フェアエンデン(verenden)」で、ただ衰弱し消え去ることを意味します。人間の死は「シュテルベン(sterben)」と言われ、肉体の衰弱のプロセスにおいても、人間として精神的に成長できる可能性があることを意味します。これは、日本の有名な映画、黒沢明監督の「生きる」に非常に素晴らしく表現されています。
また、ヨーロッパの中世期には、死についての書物が数多く出版されました。そのタイトルの多くには「死の芸術(art of dying)」とあり、その考え方としては、自分なりの「生」をまっとうしなければならないと同じように、自分なりの「死」もまっとうしなければならない、死に学ぶというものです。
2011年3月の震災で多くの人が突然に亡くなりました。例えば、がんの場合、家族は数週間前から死の時期がわかっており、こころの準備ができる環境にありますが、突然の死の場合はこころの準備ができていないですから、複雑な悲嘆になります。こういったことから、私は、死への準備として大切な課題は、悲嘆教育(grief education)が必要と考えます。