「ナッジ」を応用した健康づくり 誰もが健康になる社会を目指して
杉本九実(帝京大学大学院公衆衛生学研究科)
No.1 今、注目の「ナッジ」とは-食行動・食生活支援にナッジを応用するヒント-
1 帝京大学大学院公衆衛生学研究科、2 女子栄養大学栄養学部
杉本九実、福田吉治1、林 芙美2
今、注目の「ナッジ(Nudge)」とは?
産業保健や地域保健において今、「ナッジ」が注目されています。ナッジとは「人々を強制することなく、望ましい行動に誘導するようなシグナルまたは仕組み」と定義されます。また、「ひじで軽くつく」「そっと後押し」などの意味もあります。
ナッジは行動経済学の一概念であり、実践の中で応用するための手法です。行動経済学は、2017年にリチャード・セイラー氏が、ノーベル経済学賞を受賞[1]したことで社会的に大きく注目されました。
ナッジや行動経済学にはさまざまな理論や考え方があります。例えば、フレーミング、アンカリング、損失回避、選択肢削減の法則、現状維持バイアス、デフォルトオプション、オプトアウト/オプトイン、プロンプト、コミットメント、異時点間選択、時間選好などです。また、こうした理論の中で、特に重要かつ実践に応用しやすいものをまとめた、「MINDSPACE」や「EAST」などのフレームワークもあります。詳細は、下記で紹介している「ナッジを応用した健康づくりガイドブック」をご参照ください。
ナッジでは、ゾウの親子のイラストがよく使用されます。
親のゾウが鼻で子供のゾウを後ろからそっと後押しする様子が、
それとなく行動を促すナッジを表しているのです。
健康無関心層を含めた健康づくりをナッジで科学する
どんなに行動変容を促したとしても健康行動につながらない人々、いわゆる「健康無関心層」が一定数存在します。「国民健康・栄養調査(令和元年)」[2]によると、食習慣・運動習慣の改善への関心やその意向がない人は、20歳以上の男女の約4割とされており、健康無関心層も含めたすべての人々への効果的なアプローチが課題となっています。
筆者らは、こうした健康無関心層も含めた疾病予防・健康づくりの推進および効果的な介入手法の確立をめざし、厚生労働科学研究費(循環器疾患・糖尿病等生活習慣病対策総合研究事業)の研究チームとして、ナッジや行動経済学を応用した健康づくりや介入手法について研究をしています。[3]
研究チームではこれまで、論文や学会での発表をはじめ、専門誌、ウェブメディアの連載、研修会や講演等、さまざまな活動を通して、普及啓発を行っています。詳しくは、研究チームのウェブサイトをご参照ください。
厚生労働科学研究費研究チームのウェブサイト「Nudge for Health」
『ナッジを応用した健康づくりガイドブック』に込めた想い
2022年8月、研究チームは『ナッジを応用した健康づくりガイドブック』を作成しました。研究活動の中で、専門職や健康づくり担当者が、効果的な健康づくりの推進に多くの課題を抱えていることを感じました。
東京商工会議所が中小企業を対象に実施した、健康経営に関する実態調査(2019年)[4]によると、健康経営や健康づくりの活動を実施する上での課題として、「どのようなことをしたらよいか分からない、指標がない(46%)」が最も多く、次いで「(取組の)ノウハウがない(37%)」でした。また、中小企業が求める支援として「ハンドブック等によるノウハウの提供(52%)」「他社事例の紹介(35%)」が上位にありました。
そこで、どのような集団や組織でも、専門職や担当者がナッジを応用してさまざまな健康づくりの取り組みを推進してほしい、そして、小さなことからでも、健康に関心を持って行動できる人が増えてほしい、こうした想いでガイドブックをつくりました。
『ナッジを応用した健康づくりガイドブック』
1.食行動・食生活支援編活支援編/2.運動・身体活動支援編
食行動・食生活支援にナッジを応用するヒント
今回は、ガイドブック第1弾「食行動・食生活支援編」から事例をひとつご紹介します。職域や地域では、食に関わる健康づくりの取り組みの実践に難しさを感じることもありますが、ナッジを応用した事例は多くあります。
ある運輸業の小規模事業場では、肥満などの健康課題を抱える従業員が多かったため、業務中に摂取しがちな加糖飲料を減らし、無糖飲料の摂取を増やすことを目的にした取り組みを実施しました。
その内容をナッジの基本的フレームワークである「EAST」を用いてご紹介します。
- Easy(簡単にする)
無糖飲料の販売割合を増やしました。また、無糖飲料を目の高さに配置しました。
- Attractive(魅力的にする)
無糖飲料に「おすすめ」マークを表示しました。また、無糖飲料を3本購入すると1本もらえるキャンペーンを実施しました(インセンティブ)。
- Social(皆がやっている)
加糖飲料に関する知識を普及するための資料を作成し、社員全員で回覧しました。また、自動販売機は事務室内に設置されているため、社員同士がお互いの飲料選択行動を観察できる状況でした。
- Timely(時期を適切にする)
飲料のエネルギー(kcal)と、それを運動・身体活動量に換算した値を示したラベルを飲料に貼付しました。また、飲料に含まれる糖質量を実物の砂糖で表示するパネルを自動販売機の横に設置しました。
取り組み内容は定期的に入れ替えて実施し、各ナッジの取組において、無糖飲料の販売割合の状況を観察しました。
その結果、取り組み前は無糖飲料の占める割合が62%でしたが、期間中は最も高い時期で83%と約2割増加しました。特に、Easy(無糖飲料の販売割合を増やし、目の高さに無糖飲料を配置)やAttractive(おすすめシール)を導入した期間が、最も無糖飲料の販売割合が高くなっていました。[5]
こうしたナッジの応用は、費用をあまりかけずに、日常生活や日々の業務で、導入可能なものが意外と多いものです。街や職場の中にはナッジのヒントがたくさん隠れています。ぜひ、そういった視点でまわりをみて、ナッジを発見し、保健活動のちょっとした工夫として活かしてみてはいかがでしょうか。
関連情報
参考文献
[1] リチャード・セイラー, キャス・サンスティーン, 遠藤真美 訳「実践 行動経済学」日経BP, 2009.
[2] 厚生労働省「国民健康・栄養調査(令和元年)」2020.
[3] 福田吉治, イチロー・カワチ「行動経済学」(日本健康教育学会 編「健康行動理論による研究と実践」医学書院, 249-261, 2019).
[4] 東京商工会議所 健康づくり・スポーツ振興委員会「健康経営に関する実態調査 調査結果」2019.
[5] 林 芙美「食行動変容にナッジを活かす:食生活支援の立場から」産業保健と看護, 14(6), 26-30, 2022.